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追悼・大瀧詠一 [音楽]

 2013年12月31日昼、スーパーの駐車場で何気なくスマホを触っていると、「歌手、大瀧詠一氏死去」とのニュースが飛び込んで来た。自分の第一声は「嘘だろ」。しかしすぐに本当だとわかったので、twitterにご冥福を祈ると呟いた。
 用事を済ませてから、タイムラインを覗いてみると、訃報が続々と出てきた。自分は誰かが亡くなってこれ程のツイートの嵐になるのは初めて見た。

 大瀧詠一

 その名を知るのはおそらく40歳代後半の人だろう。何故、若い人に知名度が低いのかというと、彼はほとんど音楽的活動をしていなかったからである。最新の曲は2003年の「恋するふたり」。今から10年前である。その前は1996年の「幸せの結末」、さらにその前は1985年の「フィヨルドの少女」。確かにこんな間延びした作品の発表では忘れられたり、知らない人がいるのも無理はない。なのにあのタイムラインの嵐は何故か?
 この理由を突き詰めて考えると、1981年に発表した彼のアルバムが余りにも強烈すぎたということだろう。その時に彼のマニアックな音作りや音楽的背景知識に魅了されて、新曲発表が希少でメディアにもほとんど現れないにも関わらず、そのことがかえって彼を仙人的扱いとし、ファンはますます崇拝するようになったのだ。そのアルバムの名は
「ロングバケーション」
 どのように強烈だったのかいうと、まず音作りである。いったいどれだけの楽器の数を使っているのか思うほどの分厚いバックサウンド。まるでナイアガラの滝の水しぶきを耳を澄ませて聞いているかのような豊かな音作りだ。あまりにも抽象的すぎるので具体例を挙げると、大瀧詠一を知らない人でも松田聖子は知らない人はいるまい。彼女の「風立ちぬ」は大滝氏の作曲・編曲である。これでもわからない人は1995年のちびまる子ちゃんのオープニングテーマ「うれしい予感」を思い浮かべてもいい。あのカスタネットを効果的に使った、現代楽器のオーケストラのような音が大滝氏の真骨頂である。それを支えているのは莫大な音楽的知識である。彼はアメリカンポップスはもちろん、日本の民謡や歌謡曲まで豊富な知識を持っていて、それが曲や音作りに反映されるのだ。
 さらに彼の歌声である。歌の上手い人はそれこそ星の数ほどいるだろうが、彼のような独特の高音と個性的な低音を駆使した印象的な歌声は存在しないだろう。例えていうなら、水面が太陽の光に反射して、きらきらと輝いているような声といえようか。彼はスタジオ録音の際には、電気を消し、ドアに鍵を掛け、電話も切っていたというが、そのような恥ずかしがり屋で内気な性格でなく、ルックスにもう少し恵まれていれば、歌手として大いに売れていただろう。
 もうひとつは彼独特の制作姿勢である。ロングバケーションに限らず、彼の作ったアルバムのライナーノーツを見てみるがいい。参加したミュージシャンの名前にいろいろなミドルネームがつけられている。大滝氏自身もいくつか変名を持っていて、何が何だかわからなくしている。ライナーノーツにしても個性的でおもちゃ箱をひっくり返したような楽しさが感じられる。大滝氏の作品は作品数こそ少ないものの、テイク違いやリミックスやリマスターが多い。ロングバケーションにしても数回のリマスターを経ている。これはより完全な作品にしたいという彼の姿勢と、例えばシングル版とアルバム版を全く同じコピー音源でなく、若干の変化をもたせることにより、両方買った人にお得感を提供したいからだろう。ロングバケーションではそうではないが、それ以前の彼は自分の家にスタジオを持ち、ミックスダウンも自らやっていたという経験も作用しているのだろう。
 もちろん曲も素晴らしいのだが、彼の場合は日本ではあまり有名でないアメリカンポップスのメロディーを引用していることが多く、純粋な作曲能力という点では疑問を呈する向きもある。ただし芸術というのは本歌取りといって、すぐれた作品のいいところをとって、よりいい作品を作るという風潮がある。陶芸、絵画では普通に見られる。大滝氏自身、悪びれることなく、それを認めていて、「名曲を下敷きにすると名曲ができる」といっていた。だから作曲能力と書かずに、これは音楽的知識に含めた。
 このような面倒なことを書くよりも、ロングバケーションを買って最初曲「君は天然色」を聞くがいい。買う金がないならYoutubeでもやむ得ないが、圧縮音源では彼の深い音作りは理解できないので、是非Amazonで購入してほしい。
 そんな大瀧詠一氏だが、プロになってからずっとこういう音作りで勝負していたわけではない。ロングバケーションの発売は1981年3月21日。その10年以上前からデビューし、何枚かのソロアルバムの売り上げは惨敗だったからだ。音作りもロングバケーションとかなり違い、ロックンロールやら音頭やコミックソングまでまさにごった煮状態であった。この頃の大滝氏は売り上げなど度外視して実験でもやっているかのようであった。それでも彼の作品には大きな二つの流れがあった。ひとつはロングバケーションのようなメロディーを重視した作品。もう一つは冗談音楽というか珍奇なノベリティタッチな作品だ。彼の才能を知る周囲の人は、メロディーを重視した作品で全面的に勝負することを勧めた。しかし彼はいわれればいわれるほどそれをしたくなかったそうだ。このあたりあまのじゃく的な性格が見え隠れする。
 しかしこの数々の実験的な試みを繰り返したことが、ロングバケーションの重厚な音像を生み出したといえるのではないか。何事も積み重ねが重要なのである。ロングバケーションの制作に取りかかる前の大滝氏は、レコードが売り上げが低迷し、契約が打ち切られ、まさに背水の陣だった。もう実験はできない。作品は周りが勧めるメロディー重視にして、ここはひとつ売れる作品を作ってみよう。曲は昔自分がハマっていたアメリカンポップス調にしよう。音は彼が崇拝する音楽プロデューサー、フィル・スペクターが指向したエコーをフルに効かせたウォールオブサウンド。あの壮大さを表現するにはたくさんの楽器を使ってやろう。そうするにはあのときやったこの手法がいい。こうしよう。ああしよう。と、こんな調子であの名作ロングバケーションが完成していったのだろう。
 大瀧詠一氏を語る上で、外すことができないのは松本隆の詩であろう。松本隆は1980年代最も売れた作詞家で、松田聖子の一連の作品は今日でも評価が高い。大滝氏と松本隆はもともと同じバンドに属していた。はっぴいえんどである。このはっぴいえんどにはのちにYMOで世界を席巻することになる細野晴臣やギタリスト鈴木茂がいた。今考えるとすごいメンバーだが、当時は一般に全く売れておらず、知る人ぞ知る実験バンドであった。そのはっぴいえんどの作品の中でも、松本隆作詞、大瀧詠一作曲の作品が図抜けて出来がいい。このころから両者は、お互いの作り出す詩曲が相性がいいことは認識していたと思われる。
 ところがはっぴいえんどは解散し、細野晴臣はより前衛的なサウンドを指向し、鈴木茂はスタジオミュージシャンとして数多くのセッションに参加した。松本隆はアグネスチャンの作品でいきなり売れっ子の作詞家になった。つまりはっぴいえんどのメンバーで最初に商業的に成功したのは松本隆であった。はっぴいえんど時代の二人はお互いの才能は認め合いながらも、確執もかなりあったようだ。これは有能者同志が仕事をする以上は避けられないことだ。大滝氏としては、成功を収めている松本氏に「一緒に仕事をしよう」とはなかなか口にできるものではなかったのだろう。
 しかしロングバケーション前の背水の陣で挑むとき、大滝氏は、正直言って評価の低かった自分の詩ではなく、松本隆の詩を依頼するのに迷いはなかった。松本氏は全力を挙げて作詞に取り組んだ。ロングバケーションは曲が先にできていたのだが、あまりの素晴らしさに作詞に時間を要してしまった。ロングバケーションの1曲「PA-PPI-DO-BI-DO-BA物語」のみ大瀧詠一の作詞となっているが、これは松本氏の作詞が間に合わなかったからと言われている。
 大瀧詠一氏は音楽的知識が豊富なことは前述したとおりだが、それを端的に証明するのはDJとしての才能だろう。アメリカンポップスはお手の物だし、レコードエンジニアとしても経験が深いので、録音技術に関する特番も担当したこともある。さらにNHK-FMで2度に渡って放送された「日本ポップス伝」は日本の歌謡曲の歴史的背景を走馬燈のようにまとめたものである。また「アメリカポップス伝」もあって、これについては業半場で倒れてしまったのが大変惜しまれる。彼独自の切り口の評論は、彼にしかなし得なかったからである。確かに作品の発表は少なかったかもしれないが、このような番組も作品とするならば、確かに他のミュージシャンとは一線を画した活動といえる。
 そんな大瀧詠一氏だが、彼を崇拝するファンが多いのは、自らの作品をほとんど発表せず、テレビにも出演せず、まれにラジオの特番で出るだけの地下活動をすることで、神秘性が増し、それに引かれたといえるのではないか。まさに希有なアーティストで、歌唱や作品発表がなくても、評論活動ならあと10年は軽くできたはずだ。享年65歳。サラリーマンなら定年後のライフワークに取り組む人もいるはずだ。40歳代にしてすでにライフワークに取り組んでいた大滝氏ならより違う切り口のアメリカンポップス伝ができたはずである。惜しんでも余りある逝去である。
 最後に、自分と大瀧詠一氏との関わりも記しておきたい。彼の曲を最初に耳にしたのは、テレビ番組で太田裕美が歌っていた「さらばシベリア鉄道」であった。もともと自分は鉄道好きであったので、まずはタイトルにひかれた。テレビ放送のバンド演奏であったので、あのナイアガラサウンドではなかったが、曲は印象に残った。この時点では作詞者松本隆は太田裕美や原田真二の詞で有名だったので知っていたが、作曲者大瀧詠一は知らなかった。
 次に姉が持ってきた「今評判のアルバム」としてカセットが「ロングバケーション」であった。そこにさらばシベリア鉄道が入っていて、あのサウンド、特に間奏のギターに大きな衝撃を受けた。
 それだけでは恐らく彼にのめり込むことはなかっただろう。のめり込むきっかけは1982年にNHK-FMで放送された「大滝詠一のハウ・トゥ・トラックダウン」という番組だった。5夜に渡って録音技術の進歩について語るという番組だった。もともと電気技術に興味があった自分は、彼の語る技術論に大いに蒙を拓かせた。また、それまで全く興味のなかった洋楽を聴くきっかけになった。さらにいえば、大滝氏がかなりマニアックな人物だと放送を聞いてわかったことだ。どういうわけか、番組名は「大滝詠一のハウ・トゥ・トラックダウン」なのに、彼は「笛吹銅次ショー」としかいわなかったことである。確かに番組内容はハウ・トゥ・トラックダウンではなく、このタイトルはまずいと思ったのかもしれない。素直に面白いと思った。
 早速レンタルレコードに足を運び、彼のロングバケーション以前のLPレコードをレンタルした。それらの作品はロングバケーションのような軽妙なサウンドでなく、別世界といってよく、全ての作品が気に入ったわけではないが、彼のやりたいことは理解できた。気に入った作品としては、CMスペシャル、ロックンロールお年玉、青空のように、野球狂の歌、クリスマス音頭、あの娘にご用心、といったところ。青空のようには詩をもう少し頑張っていたら売れていたと思う。
 そんな感じでファンになってナイアガラトライアングルを経て、ロングバケーションの続編というべきイーチタイムが1984年3月にリリースされた。まさかこれが彼の最後のアルバムになるとは思わなかった。メディアには、1988年にはナイアガラトライアングルVol.3が、1991年にニューアルバムを発表すると公言していたからである。
 しかし待てど暮らせど、音沙汰なし。他人への楽曲提供とラジオ番組出演とほんのわずかのシングルリリースで存在感を示すだけ。1991年は過ぎ、これも公言していた「2001年ナイアガラの旅」も結局のところ新作ではなく旧作のリマスターに終始した。「結局この人は出す気はないんだろうな」と思った。個人的にはエルビス・プレスリーのカバーをやってくれたら、嬉しかったのだが、それを出すこともなく、そしてアメリカンポップス伝も中途半端な感じで終わってしまった。ただプレスリー(かどうかわからない。とにかくロックンロールだった)のカバーは「山下達郎のサンデーソングブック」で聞いたことがあるので、関係者の承諾を得てリリースしてほしいものだ。
 あと、NHK-FMで放送されたEACH TIME未発表音源もカラオケのままでいいからボーナストラックで付け加えてほしい。



↑ナイアガラトライアングルVol 1結成秘話
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コメント 3

fansy

ブログ拝見させていただきました。

自分も大滝さんの楽曲にはずいぶん
楽しませていただきました。

最近、久々に音楽を復活しまして
ブログも立ち上げました。
大滝さんにインスパイアされた
楽曲もありますので、遊びに来て下さい。

by fansy (2016-11-04 07:14) 

fansy

ブログのアドレス忘れてました(笑)
by fansy (2016-11-04 07:16) 

umayado

fansyさん、コメントありがとうございます。

ブログ、ちょっと覗いただけですけど、またじっくり拝見させていただきます。

寒くなってきたので、「冬の妖精」が頭の中でループしてます♪
by umayado (2016-11-07 23:51) 

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